◆区間
東淀川区野中南通付近(阪神山手線と接続)〜西淀川区中島町付近(湾岸線と接続)
(約7.6km)
◆計画・構想の存在期間
昭和45年〜昭和57年頃
(昭和57年以降の構想図には淀川右岸線は存在しませんが、後に近い路線構想として神崎川線が計画されます。)
◆事業費
不明
淀川右岸線は第2環状線と同じく昭和45年に答申された路線です。その名の通り淀川右岸の東淀川区〜西淀川区を通り、西淀川区の臨海工業地域から当時大阪の副都心として計画されていた新大阪を結ぶ路線として計画されました。
昭和45年の答申路線ですが、第2環状線の放射路線ではなく、高槻線や阪神山手線に連なる大阪の北部地域を東西に通るルートの一部といった感じです。
ルートの詳細ですが、十三の北側のJR山陽新幹線と阪急電鉄宝塚線が交差する付近で同じく昭和45年に答申された阪神山手線とのJCTが設けられ、ここが起点になります。ここからは新幹線の通るJRの貨物線に沿って西へ進み、JR神戸線と交差した後は阪神高速11号池田線を跨いで、現在の大野川緑陰道路(旧大野川)を臨海部に向かって西へ進みます。3号神戸線を跨いでされに西へ進み、途中で大野川から別れて淀川通(都市計画道路淀川北岸線)上へ移ります。そのまま西へ進んで湾岸線に接続します。この湾岸線との接続位置については、当時構想されていた湾岸線が構想図上では現在の5号湾岸線よりも少し内陸を通っていたので、現在の中島出入口とは違う位置だと推測されます。
開通していれば、淀川通や歌島橋交差点の渋滞が解消されていそうですが、残念ながら現在は構想はありません。事業として着手もされていなかったので、沿線にも「淀川右岸線」の為に用意されていたのような構造物はありません。
昭和57年の構想では消えてしまった路線ですが、その後近いルートで5号湾岸線の中島と11号池田線を結ぶ「神崎川線」が計画されています。